法住寺殿跡出土品展 2011年11月3日(木)~11月28日(月)
(後白河法皇の院の御所)
今年度最後の展示会として、木下美術館に所蔵する重要文化財「京都府法住寺殿跡(ほうじゅうじどのあと)出土品」の展示会を企画しました。当美術館が、ここ比叡平に新設移転して丸3年が過ぎましたが、2回目の公開となります。これらの資料は、当美術館の創始者の木下彌三郎が京都市東山七条に経営していたホテルの建替え工事に伴って、昭和53年(1978)に平安博物館によって実施された発掘調査で出土したものです。
この地は、北側に七条通りを挟んで京都国立博物館、西には三十三間堂(蓮華王院(れんげおういん))、南には養源院や後白河天皇陵、そして東側は東大路通りを挟んで智積院(ちしゃくいん)に囲まれた地域で、平安時代末には後白河法皇の院の御所・法住寺殿の中心部と思われる場所に当たります。
法住寺殿という呼称は、永延2年(988)に時の右大臣・藤原為光によって創建された法住寺という寺院に由来します。この寺は、11世紀半ばに焼失して、以後再建されなかったようですが、その地に永暦2年(1161)ごろから、後白河法皇の院の御所が営まれ始めます。最盛期の法住寺殿は、上記の全てが含まれるほどの広大な地域に、多くの堂宇が建ち並んでいたようです。しかし、寿永2年(1183)11月の木曽義仲の襲撃によって焼失してしまい、法住寺殿はひとまずその歴史の幕を閉じることになります。鎌倉時代になって再建されますが、規模も小さく、歴史からも次第に忘れられていったようです。
昭和53年の発掘調査では、残念ながら法住寺殿の建物に関する遺構などはほとんど検出されませんでしたが、発掘区域の南端で見付かった土壙(どこう)から出土した甲冑や武具は、これまでに例のない発見として、当時も大変注目されました。資料の整理と分析を終えて、当美術館の所蔵となったのち、この土壙出土の甲冑や武具は、平成元年(1989)6月に一括して国の重要文化財に指定されました。さらに平成11年には、土壙以外の井戸から出土した瓦類や常滑(とこなめ)の壷などが関連資料として追加指定されています。今回はこれらのほとんどを展示します。800年あまりの時空を経て、奇跡的に遺った鎧や武具や馬具の精巧さや華やかさに、源平の時代を偲んで頂ければと思います。
図2 発掘調査区域周辺図
図3 土壙レプリカ
調査区の最南端で、近世の柱穴列の下層から東西3m、南北約3.3m、深さ50cmのほぼ方形をした土壙が検出された(図3)。この土壙内のほぼ全面から、漆の塗膜と若干の金属製品を残すだけの数領の鎧(よろい)と、弓矢・馬具などの遺物が出土した。
鎧を構成する小札(こざね)は、札状の革の両面に漆を塗ったものであるが、出土した小札の革は全て腐食して失われており、漆の膜のみが残る状態であった。精査の結果、鎧はほぼ全てが裏返しに床面に敷き並べたような状態であることが判った。鎧の各部分はかなり重なっているため個体数は判然としなかったが、兜(かぶと)のしころは小札が半円状に並ぶため他の部分と区別でき、5個体が確認できた。他の部分も小札の特徴などからしころと同数程度あると思われた。出土した兜の一つは古式の鍬形(くわがた)を伴っており注目された。
平安時代の鍬形の遺品は長野県清水寺(せいすいじ)と三重県八代神社(やつしろ)に伝わる2例だけである。また当時、鍬形を装着するのは大将級の人物に限られていたようで、この土壙の被葬者を考える際、重要なものと思われる。出土したしころは全て兜の鉢を伴っていない。その他に鎧の部分として、4枚の鉄板からなる脇楯(わいだて)の壷板(つぼいた)や胸板(むないた)、鳩尾板(きゅうびのいた)、総角付鐶座(あげまきつけのかんざ)などもあった。馬具としては、円形鏡板の轡(図6-2)や鞍の鞖(しおで)の部分の管金物(図8)が出土している。また、鎧を埋納した土壙の覆土から出土した小さな須恵器の花瓶(けびょう)(図11-1)と土師器(はじき)の皿(図11-2)は土壙の年代を考える上で重要な資料である。このほか注目すべきものには土壙内北寄りで人の歯1個が検出された。
図4 甲冑部分名称図 (『法住寺殿跡』 古代学協会 1984年)
図5 鎧Ⅰ~Ⅴ
図6
鉄地雲竜文銅象嵌金銀鍍鍬形(てつじうんりゅうもんどうぞうがんきんぎんとくわがた)(図6-1)
鍬形は土壙の西北部から鎧Ⅲのしころの下になって出土した(図3-1)。兜に鍬形を装着したまま前を北に向けて裏返して置き、そこから兜の鉢だけを取り外したような状態であった。鍬形は厚さ1mmあまりの鉄板1枚で作り、長さ49.7cm、鍬形台の高さは8.5cmで幅が14cmであった。鍬形は表裏ともかなり銹(さび)に覆われて出土した。 文様は鍬形台の中央の鎬(しのぎ)を挟んで2頭の龍が向き合った構図で、龍は口を大きく開けて鎌首をもたげ、前脚の一方を上げ、他方を下げ、胴部は軽くくねらせて尾部に達する。尾部は鍬形の角のほぼ中央まで達している。後脚は片脚を曲げ、他方を胴部に絡ませながら大きく後ろに伸ばして天空を駆ける姿を表している。雲は角の上半分と龍文を補填するように配されている。龍のほとんどは金色で表されているが、角・舌・爪と雲が銀色で表されている。これは鉄地に銅板を象嵌し、その銅に金・銀メッキを施すという、従来知られていなかった技法によるものであることが判明した。
鉄地鶴文銅象嵌金銀鍍鏡轡(てつじつるもんどうぞうがんきんぎんとかがみくつわ) (図6-2)
轡は土壙の西壁に接する状態で出土した(図3-2)。この轡だけが土壙中の他の遺物から離れていた。その文様は翼を大きく拡げ飛翔している一羽の鶴を表し、直径10cmほどの鏡板いっぱいに配されている。2枚の鏡板はほぼ同じ文様で、馬に着けた時、両方の鏡板の鶴はともに前を向くように作られている。鍬形と同じ技法で銅象嵌金銀鍍によるものである。この鏡板には鶴の文様を配した後、空間に8個の透かしが施されており、もう一方の鏡板にも6ヶ所ある。鍬形に相応しい精巧な作りである。
図11
土師器皿・須恵器花瓶は鎧を埋納した土壙の覆土から出土した。高さ9.3cmの小さな須恵器の花瓶(図11-1)と口径14.8cmの土師器皿(図11-2)は土壙の年代を考える上で重要な資料である。ともに平安時代から鎌倉時代にかけてのものである。
そのほか、井戸からの出土品の軒平瓦・鬼瓦・常滑壺(とこなめつぼ)の現物を展示しております。
兜
法住寺合戦
後白河法皇肖像画
法住寺殿復元図
赤地逆澤瀉威大鎧(平安期三目札仕様、創作)